プロフィール

生年/年齢 1977年/42歳(2020.1月現在)

性別 男

住所 広島県東部

家族構成 同居:妻、長女8歳、次女5歳 別居:母、妹(2020.1月現在)

最終学歴 大学 工学部建築学科卒業

資格/技能 普通自動車フォークリフト、足場組立作業、玉掛、危険物取扱(乙四)、有機溶剤作業、酸欠作業 / CAD技能2級、そろばん1級、暗算2級

趣味 動画制作(youtube)、スマホゲーム

 

 

1977年 生誕。女の子に間違えられるくらいに可愛いと評判…なのはありがちな話。

 

1981~ たぶん保育所入所。背が高い方で、お遊戯会のダンスで男女の人数差を揃えるために数が多い男から背が高い者が女役に振り替えられた内の1人。

 

1984~ 小学校入学。1学期毎に持ち回る委員では、在学中に3回は学級委員に立候補した。春と秋の写生大会では入選から漏れたことがなく特選も数度。3年生からサッカー部に所属し、高校まで続けた。(学校がステップアップするに従いクラブの所属人数が増えたことも相まって、中学校からはスタメンから外れるくらいの実力)

 

1990~ 中学校入学。中学生でもクラス委員を務める。高校受験では徒歩で通える公立高校の受験しか望むつもりはなかったが「志望校1本だと、万が一受験日に体調を崩したらどうしようもなくなる」と担任からの説得に推され、力試しのつもりで当時競争率7倍超の某大学付属の私立高校を受験しこれに合格。…するも、学費を気にしたのと通うことの面倒くささを含め、徒歩圏内の公立高校を選択。

 

1993~ 高校入学。高校でもサッカー部に所属した。中学時代の時から感じてはいたが、徐々に学力の低下を実感する。上には上がいるという相対的な面と、数学と英語は上っ面な理解しかできていなかった面からそう思わせた。

 そうは言っても成績を5段階評価で4以上を維持し、何とか地元の私立大学の推薦枠に入り推薦入試に合格。親からは「大学行くなら国公立か地元の私立(=学費と仕送り大変だから、学費の安い公立行くか、実家から通える私立にして)」と言われていたので一応センター試験に望む。が、推薦に合格して以降勉強をロクにしていなかったので撃沈。

 

1996~ 地元の私立大学に入学。高校で出会った友人に誘われ、スーパーでバイトを始める。大学のサッカー部は天皇杯に出場実績もあるレベルだったので、益々もって実力・体力がついていけそうにないため、この時点でサッカーをやめる。この大学生活からパチンコ・パチスロにハマったこともあり、サークル活動などという青春は謳歌していない。

 

1997.1 正月に母が脳梗塞で倒れる。四肢に影響は少なかったが、脳機能に障害が残った。具体的には新しい記憶の定着がしづらい、感情のコントロールができない、自己中心的になったなど。

 時期を同じくして父が吐血。検査をすると肺がん。原因はヘビースモーカーだったことしか考えられない。この時父は47歳と若く、吐血という症状まで出た時点でがんの進行はかなり進んでいたと思われる。

 

1997.8 父が他界。最終的にはがんは全身に転移していた。父が息を引き取った時、私はバイト中で、死に目には逢えなかった。

 この時から母方の実家に世話になる。母は上述のとおり脳障害があるため、私が学生の身ながら市役所・社会保険事務所・税務署を行き来して、父の事業(大工で一人親方だった)の始末と保険金の受け取りのため動いた。組合の人も税務署の人も親切に対応してくれたのを覚えている。

 

1999 大学4年目。「就職氷河期」という言葉が生まれた時代なのにも関わらず、私は就職活動を舐めていた。ゼミも3年生とか早い時期から就職を意識していた者は、就職活動に関する情報収集も早く、それなりに動いていたが、サークル活動など大学での友人を作るキッカケもなかった自分は、4年生になってやっと就職活動を始めた。周りが「20社30社面接しても内定を貰えていない」と言っている中で、自分は3,4社しか就職活動をしていなかった。

 10月になって受けた塗装会社で、自分にも面接で手応えを感じると、その会社から内定を貰え、無事その会社に就職することになる。

 

2000~ 地元の塗装会社に就職。塗装会社といっても対象は幅広く、建築・土木・鉄鋼などあらゆる分野に関する塗装を請け負っており、総合建設業(いわゆるゼネコン)的な活動をする部署もあった。全国に営業所がある会社で入社当時は従業員250人程度。同期は私を含めて5人だったが、それぞれ別々の部署に配属された。

 私が配属された部署は入社したその時に新設された、戸建て建築を対象とするリフォーム部門だった。この会社としては未知の領域である。部署は営業部門から転属となった係長が責任者で、施工管理は建築塗装部門との掛け持ちの課長、1年上の先輩(女性)は営業補助、そして営業マンは訪販業者上がりの契約社員数名(おじいちゃんからおじちゃん・おばちゃんまで)だった。みんな癖が強く、成果報酬制で雇われていた身なので金の事にはうるさかった。

 私はそんな中に施工管理担当として配属された。ピチピチの、世間の泥臭さを知らない新卒が入ったのでおじさま・おばさまからは可愛がられた。私もスーパーでのバイトの経験からおじさま・おばさまとのコミュニケーションには自信があったので、契約社員との関係は良好だった。

 施工は下請に全て任せていたため、現場で付き合いがあるのはその下請のおじさま・おにいさま達ばかり。この業種はギャンブル好きが多く、私自身もパチンコ・パチスロにハマっていたこともあって話の接点もあり、下請のおじさま達にもよくかわいがってもらえた。

 反面、私がこの会社を辞めるまで後輩ができることはなかった。就職氷河期真っただ中の時世、新卒を採用することがなかった。

 同期と接することがほぼなかったこと、同じ施工管理の立場である近い距離の先輩が同じ部署にいないこと、自分自身が"わからないことを「わからない」と言い切る自信がなかったことなどを背景とし、大きなミスを犯してしまったことやリフォーム部門で仕事がない面から他部署の応援で長期出張に行かされたことなどが要因で、パニック発作的な症状が出始めた。私は入社6年にしてこの塗装会社を辞めることにした。

 

2006~ 現在の勤務先に転職。業種は素材メーカーで、私は生産管理部門として配属される。

 

 この勤務先との縁は異なもので、私が塗装会社に勤めていた際に改修工事で担当した会社だった。その仕事の契約を取った営業マン(おばさま)は、この会社の社長と親交があり、私より先に辞めた1年上の女先輩をまず再就職先に推した。

 女先輩も生産管理に配属されていたのだがそれにはワケがあり、この素材メーカーでバリバリやっていた生産管理の人が会社を辞めて人出不足になったらしい。中途で補充されたおじさまはお世辞にも仕事ができなく、女先輩も困っていたところで、私が辞めることを営業のおばさま→女先輩→今の会社の社長…と話が繋がって、私の就職となった。これが今の会社と私の縁である。

 

~2020 今の妻とはこの会社で出会う。妻は私が入社して間もなく離職した。2008年(2009年だったかな??)に結婚。結婚と第一児出産を機に、母方の実家を離れ、近所のアパートに住むようになる。

 

 そして2019年に現在の会社を辞めることを決意し退職願を提出、現在に至る。

 

 

 生まれも育ちも地元で、修学旅行と出張くらいでしか他県を知らない井の中の蛙。職場の配属も営業と接する立場ではあるものの、外に出ることがほぼなく顧客との最前線にいるわけではない。

 40を超えたそのような男が転職を決めた理由とは、、、 果たして転職はできるのか? それはこれからの私の動き次第である。